7 漱石の月俸八十円の「真実」 〜外国人英語教師並みの待遇か〜
はじめに 

 よく口にする俳句や歌がある。たとえば入船亭扇橋(一八六五〜一九四四)の「梅が香や根岸の里の侘び住まい」(「都新聞」大正四年一一月二三日・二四日号)や、太田南畝(一七四九〜一八二三)の狂歌「世の中はいつも月夜と米の飯 さてまた申し金のほしさよ」(四方赤良『万載集』)などはその代表例であろう。
 幕末、明治維新から平成までの一世紀半にわたり日本は欧米先進諸国に対抗して「富国強兵」をスローガンに多難な道を歩んできたが、二十一世紀の今日の世界経済における日本の地位は揺るぎないものになった。一方、「○○○○や根岸の里の侘び住まいそれにつけても金の欲しさよ」の自嘲的な庶民感覚が拭いきれないのも厳粛な事実である。文学者もまた、経済(家計)と無関係に己の文学を完成さすことは不可能であった。
薄倖の歌人といわれる石川啄木〈一八八七〜一九一二〉は『悲しき玩具』で「月に三十圓もあれば、田舎にては楽に暮らせると―ひよつと思へる。」と詠んだが、東京朝日新聞社の校正係としての月給は二五円であった。

 正岡常規(一八六七〜一九〇二 以下子規と記す)は『仰臥漫録』(明治三十四年九月三十日)に「明治二十五年十二月入社月給十五円。二十六年一月ヨリ二十円 二十七年初新聞小日本ヲ起シコレニ関スルコトトナリ此ヨリ三十円 同年七月小日本廃刊「日本」ノ方ヘ帰ル 同様三十一年初四十円ニ増ス 此時ハ物価騰貴ノタメ社員総テ増シタル也」と克明に給与の記録を残している。 墓誌にも「正岡常規又ノ名ハ處之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ス。父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□。月給四十圓」と刻んだ。家計については、明治二五年一一月一七日から母八重、妹律が同居して根岸の生活始まるが、「女二人は五円あれば食べていける。二十五円あれば三人で暮らせる。というのが心積もりであった。」(正岡律 「家庭より観たる子規」)という次第であった。

 本論で後述する子規の故里である四国松山の愛媛県尋常中学校で教壇に立った夏目金之助(一八六七〜一九一六
以下漱石と記す)の俸給は、啄木や子規に比べると当初からかなり高額であった。
明治二六年 高等師範学校嘱託教師   年俸 四五〇円
明治二八年 愛媛県尋常中学校嘱託教員 月俸  八〇円
明治二九年 第五高等学校教授     月俸 一〇〇円
明治三三年イギリス官費留学   年間手当 一八〇〇円 
留守宅休職給 年額 二〇〇円
明治三六年 東京帝国大学講師     年俸 八〇〇円、
兼第一高等学校講師     年俸 七〇〇円
明治三七年 兼明治大学講師      月額  三〇円  
明治四〇年 朝日新聞入社   月俸二〇〇円 賞与加算

一、漱石著『坊っちやん』の金銭の世界

 漱石は、明治二八年四月十日付で「愛媛県尋常中学校教員ヲ嘱託ス 月俸金八拾円給与」を発令された。校長の月俸が六〇円であり新任教員としては破格の待遇と地元では受け取られた。『海南新聞』明治二八年四月一一日付)では「本県尋常中英語教師には文学士を聘する筈にて過般来適当の人を捜索したるに同校既定の給与にては適当の人を得難きがため、他の項より流用してなりとも八〇円を出さば英語を専修せし文学士にして且つ教育の経験もある人を得らるゝよしにて終に雇入れに定まりしなりと聞く」と報じている。尚、漱石は翌明治二八年四月一〇日付で解職となり第五高等学校教授となった。

 松山を舞台に漱石は小説『坊っちやん』を明治三九年四月号刊行『ホトトギス』九巻七号付録に掲載するが、金銭を具体的に記述している。
○卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思つて、出掛けて行つたら、四国邊のある中学校で數学の教師が入る。月給は四十圓』だが、行ってはどうだと言ふ相談である。
(注)漱石の高等師範学校嘱託教師の年俸は四五〇円、月給は四〇円弱。
○停車場はすぐ知れた。切符も譯なく買つた。乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分許り動いたと思つたら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。
(注)伊予鉄道の平成二四年の運賃は、三津〜古町二〇〇円、三津〜松山市駅が三〇〇円。
○宿屋へ五圓やったから財布の中には九圓なにがししかない。九圓ぢや東京迄は帰れない茶代なんかやらなければよかつた。惜しい事をした。しかし九圓だって、どうか成らないことはない。旅費は足りなくつても嘘をつくよりましだと思つて、到底あなたの仰やる通りにや、出来ません、此辭令は返しますと云つたら、校長は狸の様な眼をぱちつかせておれの顔を見て居た。
(注)官有鉄道の明治三三年の新橋〜神戸運賃は四円(三等)、大阪商船の神戸〜三津浜乗船賃は二円五銭であり、帰京は可能ではある。
○おれはこゝへ来てから、毎日住田の温泉に行く事に極めて居る。・・・温泉は三階の新築で上等の浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。其上に女が天目へ茶を載せて出す。
(注)平成二四年の道後温泉本館二階は八〇〇〜一二〇〇円(せんべい付)、三階は一五〇〇円(坊っちゃん団子付)。

 現実の漱石自身は、諸事情により手元不如意であったらしい。明治二八年四月十一日付で「奨学金返済延期願」を提出しているし、三月十八日付にて友人である菊池謙二郎(私立山口高校教授)に五十円程の無心をしている。
(注)明治二〇年代の一円は今日の七〇〇〇円〜一〇〇〇〇円に相当する。基準としては八〇〇〇円見当だろう。日本銀行の諸統計によれば@明治六年〜昭和二九年 一三八六倍(吉野敏彦『円の歴史』)A昭和二九年〜昭和五七年 四・八八倍(『日本銀行百年史・資料篇』)B昭和五七年〜平成二〇年 一・二二倍(総務省統計局ホームページ)で、明治六年〜平成二〇年を通算すると約八三〇〇倍(@×A×B)となる。

二、 漱石を松山に招聘した背景

 全国的に尋常中学校では(文部省の指導もあり)「お雇外人教師」を採用してきた。愛媛県伊予尋常中学校を引き継いだ愛媛県尋常中学校でも、アメリカYMCA派遣外国人英語教師としてターナー(明治二三・二四年度)、ホーキンス(明治二五・二六年度)を受け入れたが、YMCA派遣外国人英語教師派遣が中断しホーキンスの後任決まらず、二七年七月頃、同志社普通学校教員 カメロン・ジョンソンを一年契約 月俸一五〇円(または一二〇円)で採用する。明治二七年冬(一八九四)、外国人教師カメロン・ジョンソンの後任として優秀な日本人教師を確保する方針内定した。その背景には外国人教師から日本人英語教師への切り替え圧力があったと考えられる。

 一つは政治的背景で、明治維新以来の欧米崇拝から日本主義への復帰であった。明治二七年八月一日に勃発した日清戦争は翌二八年四月の下関条約(正式名称は日清講和条約)により @朝鮮独立、A遼東半島・台湾・澎湖諸島割譲、B賠償金二億両(約三億一千万円)、C沙市・重慶・蘇州・杭州四港開港となったが、四月にはロシア・フランス・ドイツの三国干渉(遼東半島領有の放棄など)を受けた。
中国情勢の混乱から、アメリカYMCA教師団の日本派遣は一時中止となり、結果として外国人教師が絶対的に不足し 代替として日本人英語教師(帝国大学・慶応義塾・同志社卒業生その他)を補充する必要が生じた。明治三五年には日英同盟が成立し、明治三七年日露戦争が始まり勝利し、日本主義は軍部の台頭とあいまって更に助長されることとなった。

 二つには経済的背景である。明治四年(一八七一)貨幣単位として「 円」が誕生し「新貨条例」により一ドル=一円となる。明治一八年には兌換銀行券を発行し銀本位制となる。当時、欧米は既に金本位制に移行していた。 明治二七年日清戦争に勝利して清国から多額の賠償金を英ポンドで獲得したことにより、英ポンドをイギリスで金に兌換し、明治三〇年(一八九七)金本位制に移行し一ドル=二円強でスタートする。明治三〇年〜大正八年の二〇年間は為替は金本位制の下で極めて安定的に一ドル=二円強で推移する。 その結果、お雇外国人(アメリカYMCA教師団)はドル契約であったので、日本円での報酬額は一〇〇%アップ(二倍)することになり、日本人英語教師の採用が必至となった。

 漱石招聘を実行したのは愛媛県参事官 内務部第一課長兼第三課長 浅田知定で、当時の愛媛県の教育行政を担当した人物であった。簡単に履歴を紹介する。

文久元年(一八六一)一二月二九日筑後国久留米荘島町にて出生(父軍蔵は久留米藩中小姓役十五石三人扶持)。明治一六年東京大学予備門卒業、二〇年七月帝国大学法科大学政治学科卒業(法学士)し同年内務省に出仕する。二七年愛媛県参事官となる。二九年岩手県書記官(内務部長)に転出、三一年貴族院書記官、三四年台湾澎湖庁長、三八年新渡戸稲造の後任として糖務局長となる。四三年 新高精糖株式会社専務取締役に就任し、以降財界人として活躍。大正一五年(一九二六)一〇月一六日東京府豊多摩郡落合町大字下落合で死去(享年六六歳)

浅田は同じ久留米藩出身の菅虎雄(一八六四〜一九四三)に英語教師の人選を依頼し、菅は友人である狩野亨吉(一八六五〜一九四二)とも諮り、共通の友人でもある夏目漱石に絞る。菅も狩野も夏目も、ともに帝国大学卒業生である。漱石は明治二六年学習院の就職に失敗、恋愛にも苦悶し、菅虎雄宅に寄寓中であり、明治二七年末から二八年初まで鎌倉円覚寺で参禅、一月には横浜の英字新聞「ジャパン・メール」の記者の採用試験不合格となっていた。菅に身を委ねることを一任していたこともあって。漱石は「外人給与並の高額(月俸八十円)」で了承する。後年、菅虎雄・狩野亨吉・夏目漱石は第五高等学校、第一高等学校の教授として相集うこととなった。
(注)原武哲「夏目漱石と菅虎雄―布衣禅情を楽しむ心友―」(教育出版センター 一九八三年)、荒正人『増補改訂 漱石研究年表』(集英社)を主に参照した。


 漱石の後任として帝国大学の後輩でもある明治二八年卒業の玉蟲一郎一が着任する。松山における評価、知名度は残念ながらゼロに等しい。給与は月額八〇円で、漱石と同額である。玉虫一郎一は、明治三一年四月宮城県第一中学校に移り、その後、第二高等学校教授を経て、第八代校長に就任する(昭和三年九月〜昭和七年三月)。安井曾太郎画伯の肖像画の代表作「T先生の像」のモデルは玉蟲一郎一である。

 愛媛県尋常中学校の給与明細で判断する限り、漱石が「外国人教師待遇」の厚遇で招聘されたのではなく帝国大学卒業者を高給で処遇したと判断できる。出身学校による給与格差は歴然である。帝国大学卒の横地石太郎(教頭)、夏目漱石(英語)、玉蟲一郎一(英語)は月額八〇円、高等師範卒の住田昇(校長)は月額六〇円、札幌農学校卒の西川忠太郎(英語)は月額四〇円、物理学校卒の中堀貞五郎(地理・物理)は月額三〇円であった。給与等細部については、付表@「明治二八年松山尋常中学校教職員俸給並びに漱石在職時の教職員一覧」「県立師範学校中学校教職員等級月俸表」(愛媛県資料)を参照されたい。

三、外国人教師の群像

 愛媛県尋常中学校(旧制愛媛県立松山中学校前身)の夏目漱石に先行する外国人教師については拙稿「漱石に先行する松山中学校外国人教師の来歴〜ノイス、ターナー、ホーキンス、ジョンソン〜」(「伊予史談」(第三六四号 二〇一二年一月号)で詳述した。詳しくは【付表A】を参照されたい。彼らはアメリカンボードやアメリカYMCAから日本に英語教師として或いは宣教師として派遣された一員である。

 ターナーとホーキンスはアメリカYMCAから派遣されている「YMCA教師」である。YMCA教師とは、明治二〇年(一八八七)に日本の諸学校で生きた英語を教えるため、米国改革・組合・バプテスト・長老四派のミッション・ボードと北米YMCA同盟との合同委員会によって派遣された英語教師である。第一期(一八八〇〜一八九三)年には一二名が来日、その後、欧化主義への反動時代に入り中止、第二期(一九〇〇〜一九一二)には米国YMCA同盟独自の事業となり、日本キリスト青年会同盟が周旋し、九九名が来日、三九都市の中学校・高等学校に派遣された。(注)『日本キリスト教歴史大事典』(教文館一九八八年)を参照されたい。

「YMCA教師派遣契約」の骨子は次の内容である。
1、日本語の知識なしに英語教授の機会が与えられる。
2、授業以外の時間で、もし生徒が希望するならば、自由に聖書を教えてよい。
3、旅費は支給されないが、それを誰かに立て替えてもらえば、支給されるサラリーによって適当な時期にそれを取り戻せばよい。(注)奥村直彦「ヴォーリズ評伝」に拠る。

 ちなみに、明治初期の北米航路(サンフランシシコ〜横浜)乗船賃は一等船室二五〇ドル、二等船室(European steerage)は八五ドルでほかに三等船室(Chinese steerage)があった。外国人英語教師は二等船室を利用したとすると往復運賃+食費などで三〇〇ドル(一五〇ドル×2)を必要経費とすると、月俸一〇〇ドルとして三ヶ月分は赴任・帰任時自己負担額に相当する。
(注)乗船賃はアメリカの太平洋郵便汽船会社(the Pacific Mail Steamship Company)の客船(ニューヨーク号)で香港始発、横浜を経由してサンフランシスコに向かう定期便(機帆船)である。(二村一夫著 「高野房太郎とその時代」)   
後述するウィリアム・メレル・ヴォーリズの自叙伝「A mustard-seed in Japan」(1922)に来日時の金銭的に逼迫した気持ちを率直に記述している。YMCA教師にとっても大変な一時出費であったと考えられる。
Fortunately, I had spent my last dollar, and had even borrowed money, to take me there; and there was no means of escape.
Homesick, cold, headache, lonely, But, here!

四、外国人教師の報酬システム 

 松山尋常中学校で教鞭をとった外国人英語教師給与についての先行論文を挙げておく。
(一)江藤淳『漱石とその時代(第一部)』(新潮社, 一九七〇年)
「前任者の米人教師カメロン・ジョンソンの給与の枠をそのままひきついでいた。」
(二)才神時雄「漱石の月俸八十円の背景」(岩波『図書』一九七七年一二月号)
「月給八十円は、校長及び一等教諭の枠のなかに入るが、前任教師のカメロン・ジョンソンのと比べるならば、その半分に近いものであった。ジョンソンは、月俸表からはみだした百五十円を給されていたのである。
(三)秦郁彦『漱石文学のモデルたち』(講談社二〇〇四年)
「英語の前任者カメロン・ジョンソンは同志社から来て百二十円(百五十円説もある)の高給で一年在任したのち。二十八年三月に辞職してアメリカへ帰った。」
(四)川島幸希『英語教師夏目漱石』(新潮社二〇〇〇年)
「明治十八(一八九五)年四月、高等師範学校と東京専門学校の職を辞した漱石は、親友菅虎雄の紹介で、アメリカ人教師C.ジョンソンの後任として愛媛県尋常中学校の嘱託教員になることを決意した。」
上記四書を含めて、管見ではカメロン・ジョンソンの月俸一二〇円または一五〇円の原本資料の提示がない。

1、ホーキンスの年俸
 ジョンソンの先任者であるホーキンスは帰国後、日本や松山の印象を一冊の本(『Twenty months in Japan』H.G.Hawkins)にまとめた。その中に報酬についての記述がある。
「My salary will be twelve hundred yen,or dollars,per annum, paid by the government,monthly.」
 年俸は一二〇〇円または一二〇〇ドルであり月額では一〇〇円または一〇〇ドルに相当する。支払者(the government)は具体的には愛媛県庁であろう。問題の年俸額は松山に着任前の金額であり、「My salary will be twelve hundred yen,or dollars,per annum,」として「will be」と表記している。松山で支給の給与額は当時の為替水準から月額一〇〇〜一二〇円であろうと推定されるが確認資料が見当たらない。

2、ジョンソンの年俸
 ジョンソンの月俸は通説では一五〇円である。日本(人)サイドからみれば極めて高額であるが、年収一八〇〇円(一五〇円×一二ヶ月)と誤解している。ジョンソンは明治二七年六月まで同志社で教鞭をとり明治二八年三月に愛媛県尋常中学校を離任している。したがって愛媛県尋常中学での勤務は六月から着任とすれば一〇ヶ月になるが、新学期(九月)からとして八月に着任したとすると八ヶ月である。【付表B】の通り為替相場は変動しているので、月俸一〇〇ドルの円換算では一六〇〜一九〇円となる。月俸一五〇円については、付表@記載の「県立師範学校中学校職員等級月俸表」(明治一七年六月一四日付)の最高額は一五〇円であり、その枠内に納めたと推定される。決して超法規的な高額の支給額ではない。

3、W・M・ヴォーリズ(一柳米来留)の年俸
 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(一八八〇〜一九六四)は明治四〇年 滋賀県立商業学校英語教師として二年間(一九〇七〜一九〇九)勤務する。アメリカYMCA派遣の外国人英語教師(二年契約)で月俸二〇〇円(月額一〇〇ドル相当)である。明治三〇年以降は「一ドル=二円」の為替水準となったので外国人教師給与額も大幅に増額された。当時の滋賀県立商業学校(滋賀県立八幡商業学校、現滋賀県立八幡商業学校)の安場貞次郎校長の年俸は一三〇〇円、教員の合計は一七名で一万一五八〇円(月平均四五円)であった。(奥村直彦著『ヴォーリズ評伝』)一般的な解説書には「月俸三〇〇円(県知事と同額)」と誇張して執筆されている。
ヴォーリズはその後近江八幡を中心にキリスト教の布教に努めるが、建築家として、メンソレータムの経営者としても著名である。一九四一年(昭和一六年)に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。「米来留」とは米国より来りて留まるという洒落であろうヵ。ちなみに江戸時代の伊予国小松藩の藩主である一柳家の本家筋に当たる。

4、L・ハーン(小泉八雲)の年俸
 ラフカディオ ハーン(一八五〇〜一九〇四)はギリシャで生まれ明治二三年(一八九〇)に来日、小説家、英文学者としても著名であるので詳細は割愛する。ハーンは明治二三年(一八九〇)に島根県尋常中学校教諭(月俸一〇〇円)、明治二四年から二七年まで第五高等学校教授(月俸二〇〇円)、明治二九年から明治三五年三月まで東京帝国大学講師(月俸四〇〇円)であった。漱石はハーンの後任として第五高等学校教授(月俸一〇〇円)、東京帝国大学講師(年俸八〇〇円)を歴任するが、漱石の月俸・年俸は高等学校、帝国大学ともにハーンの月俸・年俸には遥かにも及ばなかった。

なお、愛媛県と同様に、香川・徳島・高知県においても官公立中学校では外国人教師を招聘している。
ゼ・ヒ・モリス(高松中学校 明治六年)
フィバルト(丸亀中学校 明治三七年)
ローラン・P・イーストレーキ(丸亀中学校明治四〇年)
カール・O・スパーマー(高松・丸亀中学校明治四三年)
W・ランバス(徳島尋常中学校 明治二一年)
ネットル・シップ(徳島尋常中学校 明治二二年)
プライス(徳島尋常中学校 明治二三年)
M・J・カラハン(徳島尋常中学校 明治二四年)
ポーシャ (高知藩校 明治三年)
フラデゲッキ・アデリリアン・マイヤ(高知致道館 明治三年)
トウマス・ヘリヤト(高知致道館 明治三年)
エム・バヨウ(高知尋常中学校 明治二三年)

【資料】
@ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料 御雇外国人』(小学館 一九七五年)
A拙論「漱石に先行する松山中学校外国人教師の来歴(『伊予史談』第三六四号)

おわりに

 お雇い教師の多くがポンド或いはドルをベースに雇用契約を結ぶのは当然である。細部資料はないが、アメリカYMCA英語教師については年俸一二〇〇ドル(月俸換算一〇〇ドル)であることを明らかにした。時系列的に判断すると、円ドルの為替相場の推移によって月俸一〇〇円〜一二〇円〜一五〇円〜二〇〇円と日本円では増額されていく。一方日本人教師は、帝国大学を頂点として高等師範学校、高等中学校、尋常中学校の序列化が進み、教育においても国家統制が確立していく。漱石が愛媛県尋常中学校に赴任した明治二〇年代の後半は、その移行の真っ只中であった。
 漱石の愛媛県尋常中学校の月俸八十円は尋常中学校の教師平均額と対比すれば確かに高額ではあったが、松山で流布されている「外国人教師並み給与」ではなかった。地方の尋常中学校では帝国大学出身者を教師として採用することにより地域における尋常中学校の評価を高め、優秀な学生の募集を円滑に進め向学心を高めることを狙った。愛媛県尋常中学校に限定すれば、帝国大学卒業の学士の月俸は八〇円であったことを特記しておきたい。

付表@ 明治28年、松山尋常中学校教職員俸給並びに漱石在職時の教職員一覧(愛媛県資料ほか)
   A 松山中学校外国人英語教師 略年譜
   B 「円とドル」との為替相場の推移 (『日本銀行百年史』)
     付表は煩雑になるので省略。なお参考文献も最低限度にとどめた。